Bar Incense 〜 花が迎えてくれるか

西早稲田に『Incense(インセンス)』というバーがある。
安さとボリュームを売りにする店が幅を利かせる学生街にありながら、慎重に選ばれた酒と心地の良いサービスを提供してくれる、近隣の大人にとっては貴重な空間だ。

Flowers at the bar.

このバーを一人で切り盛りするのは30代(たぶん)のマスターで、特にモルトに関する彼の知識はとても豊富で頼りになる。ふらりとカウンターに座ってその日に飲みたい気分を伝えれば、適切なウイスキーが迷うことなく選ばれ、小ぶりのステムグラスにストレートで注がれて目の前にそっと置かれる。つまり、信頼できるバーなのだ。

僕も今となってはウイスキーとブランデーにすっかり惚れ込んでしまっているが、この愉しみを教えてくれたのが彼だ。初めて訪れたのはかれこれ7年近く遡るが、『ベストキッド』のラルフ・マッチオが師匠から手ほどきを受けたように(ちょっと違うかも)、彼のもとに通いながら少しずつウイスキーの味を覚えていった。

ここは良い酒を出すだけではなく、客をもてなすマスターの気配りが程よく自分に合っているので居心地が良い。店内はいつも隅々まで清潔に保たれているし、はじめに手渡されるおしぼりからは湯気とともにほんのりと柑橘の粒子が立ち上がる。この香りを嗅ぐと「さて、飲むぞ」という気持ちにカチッと切り替わる。やがてカウンターの端に目をやると、凛とした季節の花が迎えてくれていたことに気づく。そこでようやく、ほっと気持ちが安らぐのだ。

僕は飲食店で働いた経験がないし、花の名前もさっぱり知らないけれど、店の経営と接客とメンテナンスをしながら、そこまで神経を行き届かせるために必要な志の高さぐらいは理解できる。いつ来るかわからない客のために、手間とコストが余計に掛かる花のことに思いを巡らすなんて、客をもてなす強い気持ちがないと絶対にできないよな、と花を見ながら想像を巡らす。

そんな店主の価値観の数々が渾然一体となった空間で飲むからこそ、かぐわしく喉をくぐり抜けて温かく胃に沁みてゆくのだろう。
たとえ同じウイスキーを似たようなグラスに注いでも、家で同じ気分は味わえないのだから。